「虫とゴリラ」個人メモ帳

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自然との会話
言葉を使わない生き物との会話と、言葉を使った人間の会話で、何か違うかというと、言葉を使うのは「分類する」ことである。
実はこれ自然界では起こり得ないこと。そもそも全部が違うのものだから、お互いが違うものとしてコミュニケーションしている。逆説的に言えば、違うからこそ、コミュニケーションしたくなる。
今の人間の世の中は、できるだけ五感を使わないようにして、違いを排除しようとしている。


触覚ぎらい
ペンフィールドのホモンクルス(小人)」は脳の地図。身体のどの部分が、脳のどの部分に対応しているか地図にして、そのまま人の形に描き起こすと、唇と手、指先が非常に大きい姿になる。それ程、触覚は、脳の中で大きな面積を占めるのに、あまり利用されない。
例えば、点字。触覚というのは信じられないくらい精度がいい。
脳を大きくして、言語能力まで持っているのに、触覚の文化が未だに出来上がっていない。
五感の中で、味覚と臭覚は、末梢から入った刺激が大脳新皮質に50%しか行かない。残りの5割は辺縁系という古い部分に直接入っちゃう。ところが、五感の残りの、視覚、聴覚、触覚は全部、大脳新皮質に直接入る。だから、視覚、聴覚、触覚は「一緒にすべき」である。
人間の赤ちゃんはまず最初に、周囲の世界を触角で捉える。次は何でも口に入れてなめてみたりして、味覚で捉える。そして、臭覚、聴覚、視覚という具合である。


草原に旅立つ
人間の祖先は、ゴリラやチンパンジーの棲む森を後にして、草原に出ていった。ゴリラやチンパンジーは自分の手で採った食べ物をその場所で食べていたが、人間だけは採取した食料を別の場所に運んで、他者に分配するという行動を始めた。他人が採取して運んできたものを食べるというのは、他人を信用する、その食物を信用するということである。これが情報化社会の始まりであると考える。
人間の進化の歴史は、「弱みを強みに変える」ということを繰り返してきた。じつは人間は弱い動物である。それを人間の社会力の源泉にしたからこそ、これほど大勢の人が寄り合いながら、類人猿にはない高い結束力を持ち得ることができた。「情報社会」はそこから始まってるというふうに思う。


危ない世界
生物は動くものだっていう感覚を忘れてはいけない。それを人間の視覚の中に閉じ込めちゃったのが、標本であり、もっとそれを簡単にしたのが、図鑑である。
標本は触れるし、どこからも眺められるし、なにより物体がまだ目の前にある。でも、図鑑っていうのは、一面でしかない。それは、人間の言葉と一緒で言葉を喋ってるうちは、声もあるし、個性も出てくる。声の色合いも違うから、感じ方もいろいろある。それが文字になった途端に、化石化して、一面的に色合いも持たず、自分勝手に解釈が可能になってしまう。だから、そういうものばかりが今、インターネットの中に浮かんでいる。
自然というものを情報化しちゃったことが大きな間違いということである。それを情報化して、我々が共有できると考えてしまったために、非常に危ない世界を作りつつあるんじゃないかと思う。


想像する生物
人間の持っている大きな力は「想像力」である。想像力は人間の世界を拡張するのに役立った。でも、人間は我慢ができなくなって、すべて技術を使い、わかろうとしだした。そうして、わからないものを、「無視」し始めた。それが人間中心主義。人間がわからないものも、わからなくても合意しなくてはならないものもあるわけである。それは植物の世界だったり、虫の世界だったり、魚の世界だったるする。でも、それをわからないうちに、「分かったことにして」コントロールをし始めた。
遺伝子に手を付けるようになって、人間がわかりやすい生物を作り始めた。遺伝子組み換え植物がそうだし、魚もそう、家畜もそうなってきた。本当にそれでいいのかってことだ。人間の分かり得ない世界っていうものを、どこかに「置いて」おかなくていいのかっていうのが、今、我々に突きつけられた課題である。


価値観を変える
地域によっていろいろなんだけど、日本人は牧畜を経ず定住を始めている。それは海が非常に豊かだったから、もちろん、山菜も取れたでしょう。移住を繰り返さなくとも、腹を満たす食料が得られた。狩猟採集時代に、山内丸山もそうですが、北の方の海は非常に豊かである。だから縄文人も定住できたと思う。日本人の生活というのは、何かわかちがたいものによって、土地と結びついている。これはたんに、コミュニティをつくれば済む話ではなくて、土地っていうのが重要なんだと思う。
もう一つ言えば、ヨーロッパでは、ギリシャ時代は海も神々が住む場所だった。キリスト教になってから、海は魔物の棲む場所になり、陸の世界と切り離されちゃった。日本では、ずっと海と山に挟まれて人が暮らしていて、海も山も神々が住む場所、両方とも尊い場所で、それが自分たちの暮らしを守ってくれるという思いがあった。


日本の未来像
実体経済の実利」ていうのは、「自然からの後ろ盾」で、それが限度に来ている。それはエネルギーであり、石油がもう天井を打っちゃっており、これ以上、供給を増やせない。自然の後ろ盾がなくなっちゃって、実体経済っていうものが利益を生まないので、結局、預金に利息がつかないという状況になる。これを資本主義の終焉って言っている。
ディストピアの未来は、政府が限りなく小さくなり、世界中で、グローバル企業が末端に人間まで支配する。究極の格差社会です。奴隷制社会になるでしょう。それを考えたくないので、ベーシック・インカムでみんなが生きる権利を持つという時代が来る、そう考えた方がまだいいかなと。
グローバルっていうのは、「均一化」で、すべて工業製品化した、農産物も何もかも。我々はそういう社会の中で生きながらも、やっぱり、それぞれ違うものをつくり、個人個人が違うものになっていくプロセスを経て、新しい人間の生活とコミュニティをつくっていかなくちゃならない。
未来社会っていうのは情報が共有できるわけです。流通というのも、自動化すると思う。自動運転もあるし、空中も使えるし、コストもかからない。だけど、「幸福をつくるには手間暇はかけたほうがいい」という時代ですよね。無農薬でゴロゴロした形の野菜も無駄にはなりません。海産物もそうです。自然物には、なるべく人間の手をかけずに、あるいは手間暇を十分かけて、信頼できるものをつくり、それを循環させていく。
森、里、川、海、虫、やっぱり日本列島はもう本当に多様ですから。この多様というのをうまく反映させた地域づくりと、自然観をつくっていかないと。
工業化っていうのは、均一性に向かう。その質保証っていうのが厄介である。その質をクリアしないものは、製品にならない。捨てられていくわけです。じつは、こぼれ落ちていくものほど、価値がある。価値観を持たなくちゃいけないと思います。


未来の社会にとって大切なことは、何よりも安全・安心を保障することだと言われている。裏返せば、現在はそれが大きく崩れているということだ。たしかに、科学技術は安全をつくることができるだろう。しかし、安心は人が与えてくれるものだから科学技術だけではつくれない。それだけ、現代は人への信頼が揺らいでいるのだ。それは自然への信頼が揺らいでいるせいでもあるだろう。その閉塞感を突き破るためには、感動を分かち合うことを生きる意味に据えるべきだと思う。人が生まれながらにして持つ感性には生物としての倫理がある。
それを大切にして、人間以外の自然とも感動を分かち合う生き方を求めていけば、崩壊の危機にある地球も、ディストピアに陥りかけている人類も救うことができる。


追加)
山極寿一 京都大学総長は、ある講演の中で次のように述べていた。
ゴリラの研究の中で、ゴリラは「負けたくない」という願望があるがために、抑止力が強い。結果、生活の中では、助け合いになる。
現代の人間社会では、「負けたくない」ではなく、「勝ちたい」になっている。結果、勝つことにより、尊敬が失われる、そして、孤独になる。