農の本質

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農本主義とは、大正から昭和初期にかけて、資本主義と農の本質は相いれないとした思想のようである。
ここでは思想、イデオロギーの話はともかく、農の本質についての著者の思いをいくつか紹介したい。


「農とは何か」、農とは人間が天地と一体になることである。


天地の恩恵で稲や麦が育つという考え方はある意味、宗教である。科学的に言えば、太陽も、空も、土壌も、水も物質でしかない。しかし、いかなる科学も、未だ人間はもとより、虫一匹も作ることができない。すなわち、「生命」ということに及べば科学では、虫けら一匹がどうにもならぬのである。ここに人間の及ばぬ霊体がある。
私どもが生きていくのはことごとく天地の恩恵である。


百姓の仕事の中で一番大切なものは、「自然への没入」である。それは自分を忘れるぐらいに仕事に没頭してしまうことである。それに似た境地を探すなら、仏教の解脱・覚りの境地ではないだろうか。それは人間の悩みを不自然な状態だと捉え、自然な状態の人間に戻していくことを意味している。従って、日本人なら「天地自然に没入する」ことは、自然な状態に帰ることだと想像する。


百姓は一服する時に、ことのほか生きものの姿に目をとめる。あるいは生きもので満ちている風景を眺める。そしてそこに仕事とは別の天地有情のメッセージを読み取っている。稲の葉露のきらめき、お玉杓子の泳ぐ波紋に天地有情が今年も繰り返し、そこにあるということを確かめている。当たり前の何の変哲もない世界、これにつつまれているという感覚が、一服する時に訪れる。この時の天地有情との一体感が、百姓を安堵させ、安らぎを与えてくれ、身も心も休まるのである。


私が百姓になって間もない頃、田んぼの草とりが終わって、「あー、明日から草とりしなくていい」と漏らしたら、年寄りの百姓から「あんた、自分のことばかり言いよる。昔は草とりが終わったら、稲が喜んどると思ったもんじゃが」とたしなめられた。確かに今では、草とりが終わった田んぼを見ると、田んぼ全体が楽しげに歌でも歌っているように感じられる。「内からのまなざし」が優位になっているからである。
草に美しい花が咲かなくても、とってもとっても生えてくるけど、草を相手に草とりをしていると、草と同じ世界に生きている情感が自分の体とこの別世界に満ちてくる。その結果、仕事が楽しみになる。生きものとは、動物や植物だけではない、土も石も水も風も空もお天道様も生きものだと感じるのは、こういう時である。


「美意識」というものは、外からの見方で、しかも近代的な概念である。日本語の「美しい」とは、立派だという意味だったようだ。日本人は改まった場面でないと、美しいという言い方をしない。普段使うのは、「きれい」の方である。
百姓がきれいと思うものは2つある。ひとつは仕事の出来栄えである。きれいに耕してある、草刈りした畔がきれいだ、という言い方をする。もう一つは、畔の花を刈っていく時に、愛おしいに似た、きれいという感情が湧いてくる時である。以前は畦の草や花の名前をあまり知らなかったので、早く刈ってしまおうという気持ちばかりだったが、今ではほとんどの名前を覚えているので、名前を心の中で呼びながら草花と話ができるのである。草花を刈る時は、ごめんよと心の中でつぶやくが、一方でまた来年咲いてくれよという気持ちも伝えている。


ここで立ち止まって考えたいことがある。百姓の「感謝」と「祈願」は、天照大神信仰や村々の神社の創建よりもはるか前からあった、ということである。
しかもこの感謝と祈願は、精神としても別のものである。現在の百姓でも作物を収穫する時には、天地自然に感謝する。それはお天道様だけではなく、水や土や風や生きものや家族や村の人たちに向けられる。さらに忘れてはならないのは、この田畑を拓いてくれた先祖、先人にも向けられる。
以前、伊勢神宮外宮の神官の話を聞いたのだが、「祈る・祈願」という状態が無い状態こそが、神に向き合う時の心であるべきだというのである。そこで感じるのは「ありがたい」という感謝だけである。昨今は感謝抜きの祈願が当たり前になろうとしているが、少なくともかつての百姓の神に対する姿勢は違っていたようである。

 

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2021/05/16

世田谷 在所にて