首都直下地震と南海トラフ

鎌田浩毅さん、京都大学名誉教授、地球科学者、火山学者、「科学の伝道師」、「京大人気No.1教授」

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以下は、鎌田さんの最新著書からの抜粋

 

 2011年3月11日午後2時46分、東北沖を震源とする東日本大震災が発生した。かつて、宮城県沖では869年に貞観地震という大地震が起きたことがあり、まさに1000年に1回の巨大地震が起きたのである。今後は引き続き余震で起きる地震と、北米プレート上の内陸で起きる直下型地震と活火山の噴火に注意する必要がある。
 余震については、本震のマグニチュードから1引いたものが余震で来ることを、私たちは過去の蓄積された膨大なデータから知っている。つまり、東日本大震災がM9であったので、最大M8クラスの余震がこれから来ることになる。
海域で巨大な地震が発生したあと、遠く離れた内陸部の活断層が活発化した例は過去にも多数報告されている。これは海の震源域内部で起きた余震ではなく、新しく別の場所で誘発されたものである。東北から関東地方の広範囲にわたり直下型の誘発地震への警戒が今、一番備えなければならない。こうした内陸型の直下型地震は時間をおいて突発的に起きる。
さらに、海溝型の巨大地震が発生すると、しばらくしてから火山が噴火する。地下で落ち着いているマグマの動きを刺激して、噴火を誘発する。箱根山では東日本大震災の発生直後から小規模な地震が急に増えた。この他にも地震が増えた活火山は、関東・中部地方日光白根山乗鞍岳、焼岳、富士山。伊豆諸島の伊豆大島、新島、神津島。九州の鶴見岳・伽藍岳、阿蘇山九重山。南西諸島の中之島諏訪之瀬島などがある。
 東日本大震災は太平洋プレートの沈み込みで起き、東海・東南海・南海地震の三連動はフィリピン海プレートによって発生し、それぞれが別の時間軸で動いている。この南海トラフの海域で起こる三連動の大地震は過去に、1361年の正平地震(M7.9)、1707年の宝永地震(M8.6)と、やや不規則ではあるが、約300年に1度起きることがわかってきた。それが2030年から2040年に起こると警告され、地震の規模はM9.1と予測されている。


 地球科学的に見て日本列島が大地変動の時代に入ったことは確実である。それは、「3.11」が進路を変えたと言っていい。上述のように、海域で起きる「余震」と「三連動地震」、陸域で起きる「誘発地震」、活火山の「噴火」という4つを、自分の人生のスケジュールに入れなくてはならない。
歴史的に、宮城県沖地震は30年に1度、南海地震は100年に1度であるのに対し、10年前の東日本大震災は、1000年に1度のもの、東海・東南海・南海地震の三連動は300年の1度のものである。さらに、火山の噴火では1万年に1度の頻度で起きる巨大噴火がある。例えば、7300年前には鬼界カルデラの噴火、また2万9000年前には鹿児島湾の姶良カルデラの噴火があった。
それでも日本人は生き延びてきた。


【地球や自然とどうつきあうか】
 エネルギー問題の先には、現代文明の持つ根本的な問題があると思う。20世紀の後半から「楽に、快適に、速く」ということで現在まで突っ走ってきたのだが、度がすぎて歪みが至る所で生じてきている。実は、「楽に快適に」を少し減らした方が、ずっと人間らしい生活があるのではないか、と言うことを我々に気づかせたのが、「3.11」である。
例えば、その土地のものを使う「地産地消」という低エネルギー生活をする。みんなが少しでも文化装置を減らしていくと、日本全体ではすごいエネルギー削減になる。


 阪神・淡路大震災の時もそうだったが、結局地元の人、身近な友達が踏ん張って復興した。だから、「地域コミュニティ」がとても大事である。普段から助け合ってコミュニケートしていれば、大きなパニックに陥らなくて済む。自分一人じゃないって思えるのはすごく強力なこと。
あとは「自分の体」を大事にして、体力を持っておくこと。まさかの際には、お金でも学歴でもなく体力がものをいう。


 文明の進展に従って、人と富と情報が大都市へ集中し始めた。この集中が何十年も継続し、東京やニューヨークなどのようにメトロポリタンが肥大化しすぎると、思わぬ弊害が生まれる。大事なポイントは、人口過密状態に陥った都市の過剰エネルギーをコントロールし、的確に「集中」と「分散」を図ることである。
これは地方分権といった行政上だけでなく、政治・経済・資源・文化・教育の全分野にわたって必要な行動である。過度の集中の弊害に気づいた時点で、分散を敢行し「リスクヘッジ」を行う必要がある。それが世界屈指の変動帯、日本列島に住み続ける最大の知恵となるのではないだろうか。


【私たちはどう生きるべきか】
 地球は今から46億年前に誕生し、それ以来ずっと安定的に進化し現在に至っている。そして未来を予測してみると、地球はあと50億年くらいは保つ。太陽系が誕生してから終末を迎えるまで全部の寿命がちょうど100億年くらいである。太陽自身は次第に大きくなっていき、いずれ地球が回っている軌道を越えて、地球そのものを呑み込んでしまう。つまり、地球が太陽に焼かれてしまい、最後に太陽自身が大爆発してしまう。
でも、ご心配なく、50億年も先のことですから。今までに46億年間にわたって積み上げた地球の「進化」、生命の「知恵」、自然に対する「畏敬の念」の3つを持って、次の50億年を過ごせばよい。地球科学が教えてくれるのは、そのような壮大なストーリーを持つ生き方である。


 地球の歴史は、地下に溜まった「熱」の発露である。熱を効率よく出そうとしてマグマが噴出し、活火山ができる。その活火山は「災害」も起こすけれども、一方では「恵み」もちゃんとある。日本人の大好きな温泉も、火山の麓で採れる高原野菜も、全て火山のおかげである。
善悪の両方あるのが、自然界の姿である。従って、活火山でも活断層に対しても、災害と恵みを全部合わせて付き合おうとすればよい。
この際にどう考えればよいかというと、「短い災害と長い恵み」というフレーズが参考になる。
 火山災害は、実は短いものである。そのときだけ火砕流や溶岩流から何とか逃れればよい。そのあとは長い恵みが必ずやってくる。地震にも火山と同じ構造がある。大きな地震が来たときに揺れる瞬間は、10秒かせいぜい1分である。よって、その1分間に大ケガをしないように、何とかしのげればよい。1分間ガーっと大きく揺れても、家具が倒れてこない場所に避難していればよい。そして、そのあとの100年もの長い間は、楽しく暮らすことができる。地震現象は「長尺の目」で眺めると、意外な面が見えてくる。例えば、地震のおかげで山が高くなり、その前面に広い平野ができる。もし日本に地震がなかったら、ただの険しい山地ばかりが続き、住むには適さない。「短い災害」と「長い恵み」というのは地球の動きから導かれる「本質」でもある。火山の研究に没頭するようになってから、自然界にあるものは全て同じような「構造」を持っていると思うようになった。元来そういうものであると考えて、ゆったりとデンと構えて、動く大地の上で暮らすのが、地球科学者の生き方である。これが皆さんにお伝えしたかったことである。
しかも、現在はマラソンの折り返し地点で、まだ太陽系の寿命まで50億年もある。その50億年を、部分だけを見るのではなくトータルで考えよう、というのが私の提案する自然とつきあう際の立ち位置である。これと同時に、「長尺の目」、「畏敬の念」を持って自然の中に生きることの素晴らしさを皆さんに伝えたい。こう捉えてみれば、明るく落ち着いた、そして「しなやかな生活」ができるのではないかと期待している。

 

「イノベーションはいかに起こすか」、「DXとは何か」坂村健

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以下は読書メモです。

イノベーションの意味するところは、経済活動において利益を生むための差を新たに作る行為である。
イノベーションは技術だけではない。インターネットは、コミュニケーションの極端な低コスト化を可能にした。
政府は、イノベーションが起きやすい環境の整備に力を入れるべきである。この環境に当たるものがインターネットの考え方をあらゆるレベルに拡張した、ネット時代のオープンな情報基盤である。政府が持つデータをオープンにすることで、官民の融合を促進すべきである。
イノベーションに成功するためには回数を増やし、何度も何度も挑戦するというやり方しかない。


・AI・IoT時代で大切なことは、変化の本質を見誤らないこと。
・変化の本質は、オープン、マッシュアップ、ベストエフォートという3つにある。
・オープンは、インターネットの世界での考え方そのものであり、AI・IoT時代においても同様である。
また、シェアという考えで成り立つビジネスモデルの構築も、1つの活路になるだろう。そしてこういうものをオープンな基盤の上に作られて初めて成功する。
マッシュアップは、異なるコンテンツや技術を組み合わせて新しいサービスを作るものである。ネットワーク技術が進化した現在、一人でできなかったことも、いろいろな人とネットワーキングすることで、新しいサービスを作り出すことが簡単に出来る。
・ベストエフォートとは、可能なかぎり努力をするが、結果は保証しないということ。インターネットは典型的なベストエフォートであり、IoTもベストエフォート型でないと、イノベーションや新しいビジネスモデル創出につながらない。
・守るべきプライバシーとは何か。プライバシーの行き過ぎは、そういう人が公共に貢献する権利を奪うという見方もある。マイナンバーの意味するのは、名前プラス住所と同程度。それくらいの秘密性しかないということを行政は強くアピールした方がよい。まるで銀行口座の暗証番号かそれ以上のように、誰かに知られたら大変なことになる番号のようなイメージになってしまっている。逆に国民であることを証明するための番号であり、付与されて公に国民であることが認められるためのものである。


・日本では、DXを単なるデジタル化や情報化を言い換えた、バズワードと誤解する向きもあるが、例えば、ファクシミリを電子メールにするのは単なるデジタル化であり、報告するというやり方自体を見直すのがDXである。
・RPAは業務のやり方を変えないため、単なるカイゼンに過ぎず、DXではない。日本の真のデジタル化は、RPAを捨てる決断をしたところから始まる。
・情報処理系のO Sと組み込み系OSでは、OSとしての基本機能である最小単位の仕事の締め切りを決めるスケジューリングの機能が全く異なる作りになっており、完全に別系統のOSである。
・人が書いた使えそうなオープンなソフトをまず使い、それをちょっと手直ししながら完成させていくというようなアジャイル、小さな単位から素早くプログラムをはじめ、サイクルを何回も回し完成に近づけるというような開発手法が最先端になってきている。

日本の潜在力

「未来の大国」(浜田和幸著 祥伝社)よりの抜粋

 

日本は世界有数の海洋大国である。排他的経済水域EEZ)の面積は447万㎢で世界第6位である。
海流や海底地形のおかげで、日本近海は水産資源の宝庫である。漁獲量が多いだけでなく、魚種の多さでは世界でもトップクラスなのだ。


また、国土の75%が森林であることも大きな特徴だ。これは日本が豊かな水に恵まれていることと密接に関係している。北海道の土地を、中国が水資源地として買いあさることが問題になったように、日本の水は何としても手に入れたい魅力ある資源なのである。


日本はかつて、資源のない国、資源を外国から輸入、加工して製品を輸出する加工貿易の国と言われてきたが、ここにきて、広大な排他的経済水域の海底には、とても重要な2つの資源が眠っていることが発見された。それがメタンハイドレートレアアース泥である。この財産を活用できるかどうかが、これからの日本の命運を握っていると言っても過言ではない。
 メタンハイドレートは、穴を掘れば噴出する天然ガスとは違い、水上の個体であるが故に採取の技術を開発する必要があるが、この面では日本は世界の最先端を走っている。このメタンハイドレートは日本近海に大量に存在することが発見されており、2025年〜2027年には実用化の目処がつくものと言われている。
 レアアースは、LEDやICなどの電子部品、次世代自動車の高性能モーター、小型軽量バッテリー、環境対策に必須の触媒などに使われる希土類元素のことである。テレビやスマホ、通信、輸送交通システムから、ミサイルの誘導制御システムなどの防衛装備まで、性能の鍵をレアアースが握っている。しかしながら、現状の世界のレアアース鉱床は中国に集中し、中国が産出量の97%を握るという非常にいびつな供給体制にある。そのレアアース泥が南鳥島周辺の海底で大量に発見された。この莫大な量の量のレアアース泥は、日本が資源立国へと転換する可能性を示唆している。

生命誌の世界

科学者とは
分からない事を一杯持っているのが、科学者
分からない事を教えてくれるのが、科学者


高校までは、わかっている事を教える教育であり、大学では、分からない事を教えることが重要
常識を疑うことの教育
歴史であれ、医学であれ、どんどん変わっていく、それを疑う前提で考える

 

以下は「生命誌の世界」(中村桂子 NHK出版)からの一部抜粋

デジタル化社会も、先ずは今後どういう社会にしたいかを考えないとダメ

 

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生命誌の研究は、生命観、世界観づくりに生かし、そのような考え方を基にして社会づくりをしていこうというものである。そこでは、生物に関する個別の知識の活用の前にもう一度、社会の基本を確認しなければならない。遺伝子組換え技術もクローン技術も現在のような進歩一辺倒の社会で使うのはまずい。どのような社会にするかを決めてから技術の使い方を決めなければならない。具体的には、進歩一辺倒の大量生産・大量消費型から循環型社会への転換が必要であろう。
しかも、技術からの発想ではなく、人間の側から考え、「一人一人の人間がその一生を思う存分生きられる社会」にしていきたいと思うのである。


そこで、社会としては、誰でも求める基本を支えることに徹するために、「ライフステージ」という言葉を作り出した。これは、胎児期、乳幼児、幼児期、学童期、思春期、青年期、壮年期、老年期として人間の一生を段階的に見ていく見方を表すものである。もう少し別の区切りがあるかもしれないが、要は人間の一生を成長に伴ってある時期に分け、それぞれの時期にしなければならないことは何かを考え、それに見合う社会システムをつくっていくことである。こうすれば、一人一人のニーズに応える社会になるはずである。

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ライフステージという考え方の利点の一つは、健常者と弱者、正常と異常という区別がなくなることである。通常社会の中で弱者とされるのは、乳幼児、老人、身障者などであるが、ライフステージという視点で見ると、これはステージの一つである。一人として、乳幼児、老人、病人にならない人はいない。身障もそうである。いつ誰がどのような状態になるかわからない。このようなステージは必ずあるものとして社会システムを組み立てるのは当然で、福祉社会とあらためていうものではない。


ライフステージ社会は、過程、多様性、質という生物の基本に目を向けることになるので、生産システムも当然生産から消費、廃棄までを含めた循環型になる。

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図の第一象限は経済を追求する現代文明社会、現在はほとんどここで事柄が進んでおり、都市である。それに対して地域性があり、自然が豊かで人情が厚い第三象限は、時に憩う場である。こうして現代社会は、日常のほとんどを第一象限、それに少しのゆとりを与える場としての第三象限で成り立っている。
しかし、地域性や自然を生かしながら、しかも経済性を成立させる産業はないのだろうか。第二象限の農林水産業は明らかにここに入る産業である。ところが農業は第一象限で工業と張り合っていくことを求められている。そのために環境破壊がますます進んでしまう。

もう一つの象限、第四象限は、文明を充分に使いこなしながら、人の心にも配慮するというところで、医療、教育はここに入ると考える。

 このようにして全体に広がった社会をつくっていくには、自然・人間についての知識を充分に生かすこと、また生きものの本質から価値観を探ることが極めて重要だと思う。

農の本質

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農本主義とは、大正から昭和初期にかけて、資本主義と農の本質は相いれないとした思想のようである。
ここでは思想、イデオロギーの話はともかく、農の本質についての著者の思いをいくつか紹介したい。


「農とは何か」、農とは人間が天地と一体になることである。


天地の恩恵で稲や麦が育つという考え方はある意味、宗教である。科学的に言えば、太陽も、空も、土壌も、水も物質でしかない。しかし、いかなる科学も、未だ人間はもとより、虫一匹も作ることができない。すなわち、「生命」ということに及べば科学では、虫けら一匹がどうにもならぬのである。ここに人間の及ばぬ霊体がある。
私どもが生きていくのはことごとく天地の恩恵である。


百姓の仕事の中で一番大切なものは、「自然への没入」である。それは自分を忘れるぐらいに仕事に没頭してしまうことである。それに似た境地を探すなら、仏教の解脱・覚りの境地ではないだろうか。それは人間の悩みを不自然な状態だと捉え、自然な状態の人間に戻していくことを意味している。従って、日本人なら「天地自然に没入する」ことは、自然な状態に帰ることだと想像する。


百姓は一服する時に、ことのほか生きものの姿に目をとめる。あるいは生きもので満ちている風景を眺める。そしてそこに仕事とは別の天地有情のメッセージを読み取っている。稲の葉露のきらめき、お玉杓子の泳ぐ波紋に天地有情が今年も繰り返し、そこにあるということを確かめている。当たり前の何の変哲もない世界、これにつつまれているという感覚が、一服する時に訪れる。この時の天地有情との一体感が、百姓を安堵させ、安らぎを与えてくれ、身も心も休まるのである。


私が百姓になって間もない頃、田んぼの草とりが終わって、「あー、明日から草とりしなくていい」と漏らしたら、年寄りの百姓から「あんた、自分のことばかり言いよる。昔は草とりが終わったら、稲が喜んどると思ったもんじゃが」とたしなめられた。確かに今では、草とりが終わった田んぼを見ると、田んぼ全体が楽しげに歌でも歌っているように感じられる。「内からのまなざし」が優位になっているからである。
草に美しい花が咲かなくても、とってもとっても生えてくるけど、草を相手に草とりをしていると、草と同じ世界に生きている情感が自分の体とこの別世界に満ちてくる。その結果、仕事が楽しみになる。生きものとは、動物や植物だけではない、土も石も水も風も空もお天道様も生きものだと感じるのは、こういう時である。


「美意識」というものは、外からの見方で、しかも近代的な概念である。日本語の「美しい」とは、立派だという意味だったようだ。日本人は改まった場面でないと、美しいという言い方をしない。普段使うのは、「きれい」の方である。
百姓がきれいと思うものは2つある。ひとつは仕事の出来栄えである。きれいに耕してある、草刈りした畔がきれいだ、という言い方をする。もう一つは、畔の花を刈っていく時に、愛おしいに似た、きれいという感情が湧いてくる時である。以前は畦の草や花の名前をあまり知らなかったので、早く刈ってしまおうという気持ちばかりだったが、今ではほとんどの名前を覚えているので、名前を心の中で呼びながら草花と話ができるのである。草花を刈る時は、ごめんよと心の中でつぶやくが、一方でまた来年咲いてくれよという気持ちも伝えている。


ここで立ち止まって考えたいことがある。百姓の「感謝」と「祈願」は、天照大神信仰や村々の神社の創建よりもはるか前からあった、ということである。
しかもこの感謝と祈願は、精神としても別のものである。現在の百姓でも作物を収穫する時には、天地自然に感謝する。それはお天道様だけではなく、水や土や風や生きものや家族や村の人たちに向けられる。さらに忘れてはならないのは、この田畑を拓いてくれた先祖、先人にも向けられる。
以前、伊勢神宮外宮の神官の話を聞いたのだが、「祈る・祈願」という状態が無い状態こそが、神に向き合う時の心であるべきだというのである。そこで感じるのは「ありがたい」という感謝だけである。昨今は感謝抜きの祈願が当たり前になろうとしているが、少なくともかつての百姓の神に対する姿勢は違っていたようである。

 

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2021/05/16

世田谷 在所にて

 

拠り所

 昨年から新たなワークライフがはじまったが、それまでの爆速サラリーマン時代に、万が一の時、生きていくために、すがるものが1つだけあった。そのおかげで、やる気も出たし、集中も出来た。


兄曰く
「お前は次男、東京でやりたい事をとことんやればいい。
オレは長男、田舎で田畑をしっかり守る。
お前に万が一何かあったら、帰って来ればいい、その時は食うことには困らない、死にやしない。」
崖っぷちで、この言葉を「拠り所(よりどころ)」とした、勇気を貰った。
こういうのは、今のコロナ禍も次の脱炭素社会とも無縁である。


ところで、これから万が一の時の拠り所は?食べるためには、どうする?
もしかして、田舎に田畑があっても、野菜の作り方を知らないオレ、これ、やべえっ!
と言うわけで、ほんの僅かの貸菜園で野菜作り🥬はじめました。数年かけて技を習得しないと。


ついでに、こんな本も読みながら、、。

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